刀剣嫌いな少年の話 拾漆(完)


   ***

 化け物が消え失せると、瘴気と穢れに満たされていた空間の重みが一気に軽くなった。
 必要がなくなった二重結界も、少年により解かれた。
 あれほど剣戟ばかりが溢れていた空間に、静寂が訪れる。他の場所で繰り広げられた戦闘も、終わりを迎えたらしい。まるで、これまでの騒ぎが夢だったかと錯覚するほどの静けさだった。

 空を見上げれば、新しい結界の壁が作られていた。眼鏡の審神者や管狐らが、外部からの形成に成功していたのだ。

 完全なる敵の消滅を見届けた彼らは、肩で息をしながらも半ば呆然としたまま、突っ立っていた。

「……倒した……?」

 後藤が、ぽつりと呟く。
 嗚呼、と薬研がかすれた声で答えた。

「……勝った、な。……勝った……」

 確認するように、何度も呟く。――やがて、それぞれの口から、大きくて深い溜息が吐き出された。
 長谷部と宗三は膝に手を置いて、今更のように肩で息をした。燭台切と大倶利伽羅、鶴丸は、互いを見合いながらよろよろと座り込む。

「……やっと、終わったかよぉ……」
「はい……おわりました。……ああ、やっと……おわりました……」

 腹部の傷の痛みに顔を顰めながら、少し虚ろでありながら喜びを滲ませた瞳で不動が問う。それに、今剣が答えた。

「誰も、折れてない、ですか……?」
「……大丈夫。あるじさまも、無事」
「あう、ぅ……よ、よかったぁ……!」

 寝かされている秋田に小夜が答え、五虎退は横になったまま安堵した様子で泣きそうになりながら頷いた。

「五虎退ぃ……泣いてるんじゃねえよぉ……」
「うう……す、すみません……うえぇ……」
「……ふどうも、ないているじゃないですか……」
「うるせー……泣き虫天狗はダメ刀が泣くのも許しませんってかー……」
「ふふ……みんな、泣かないでくださいよ……もう、小夜くんまで……」
「秋田……ごめん……何か……出てきちゃって……」

 めそめそと泣き出している短刀らを横目に、加州はゆっくりと息を吐いた。吐き出した息が、白く塗られて、霧散していく。ヒールで雪を踏みしめる。かいた汗は、まだ熱を持っている。生きているなと感じた。

「……安定」
「うん?」
「本当はお前、もうここの刀じゃないのにさ。すごく巻き込んじゃってごめん。……ありがとうね」

 こちらを見ずに言った加州の横顔は、本当に少しだけ申し訳なさそうだった。
 何を今更。水臭い。僕だって、元々はここの刀だよ。
 思いついた言葉を口に出すのは、やめておいた。大和守は、赤い相棒に少し肩を竦めて、首を傾げた。手を伸ばし、頬をつねる。

「いてて!?」
「清光。僕からも言いたいことがあるんだけど」
「な、なに?」
「悪いと思ってるなら、僕のとこにいる清光に教えてあげてくれないかな」
「……へ? 俺が、俺に、何を教えるの?」
「爪紅の塗り方」
「はぁ!? 何それ、超基本なんだけど!?」
「他にも。髪の結び方……あー、あと、世間話の振り方? 急にいい天気ですねって言われても僕は困る」
「待って、態度まで不器用なの!? 冗談でしょ!?」

 素っ頓狂な声を出して、言葉を続けながら眉を顰める加州に、くすりと安定は笑う。
 相棒の申し訳なさそうな顔なんて、自分が移籍した今の本丸で散々見たのだ。この方が、彼らしいと思う。

 久しぶりの加州と大和守の穏やかな会話を後藤が眺めていると、

「随分……壊されちまったな」

 そんなぼやきが耳に入ってきた。薬研だった。
 見回してみると、庭も、屋根も、廊下も、部屋も、ひどい有様だ。ありとあらゆる場所に戦闘の痕が残り、血も飛び散っている。幸い、本丸を燃やそうとした敵の動きは封殺できたようだが、あくまで形を残せたというだけで、様子はかなり痛々しい。
 だが少年は、火も放たれ、全滅した本丸を知っている。これよりももっと悲惨なものだったのだろう。

「誰も欠けてねえんだ。みんなでやれば、すぐ直るよ」

 主を案じている薬研に、後藤は言う。
 戦を知っていて、戦のために使われるのが刀剣だった己が、敵を倒してもこんなにも心を痛めるのは、子供に感化されたからだろうか。
 沈鬱な気持ちでいても、仕方ない。前を向かなければならない。
 薬研は切り替えるように頭を振ると、腰に手を当てて頷いた。

「前とは比にならない壊れっぷりだからなぁ。こりゃ時間かかるぜ」
「はは。時間制限があるわけじゃねえんだから、ゆっくりやればいいんじゃね? 主も一緒に、な」

 そんな風に、刀剣らが言葉を交わし合う中。
 少年が、足元に巾着袋を下ろす。消滅した敵を、最も近い距離で見つめていた獅子王に向かって、歩き出した。
 

 獅子王は、子供の気配に気づくと振り向く。手に持っているのは、力を使い果たして、ただの布切れと化しているもの――黄金の布で作られた、上質なお守りだった。
 嬉しそうに頬を緩め、太刀は口を開く。

「ある――うわっと!?」

 人間の子供だというのに、驚くほど傷だらけだ。包帯から血は滲んでいるし、霊力の使い過ぎでふらふらだ。こんのすけが補填してくれた霊力など、とうの昔に使い果たしている。
 だが、少年は少し足を引きずりながらも、唐突に走り出し、獅子王の懐に飛び込んだ。
 怪我も全て回復している獅子王は、驚きながらもよろけることなくしっかりと受け止めた。腰に手を回し抱き着いてくる子供に、獅子王は笑顔をいっそう深くして、ぎゅうっと抱きしめ返した。

「主、やったな! 俺達、勝ったんだぜ! それもこれも、」
「……っ……っ……最悪……まじで、最悪……最悪っ……!」
「……え?」

 嗚咽が聞こえ、しゃくりあげ、告げられた言葉は「最悪」の二文字。それを繰り返され、獅子王が言葉を思わず切った。
 腕を緩めると、がばりと少年が顔を上げる。灰色の目から、大粒の涙が零れていた。

「最悪だよっ、お前!!! ふざけんなよっ!!!」

 少年は、できる限り力いっぱい、獅子王の腹を殴った。怪我を負った子供の拳骨など、万全の彼からしたら痛くも痒くもない。

「俺は、折れるなって言ったよな! 死ぬなって、言ったよな! そういう主命だったよな!! なのに何だよ! 一回折れるとか、ふざけんなよ!!!」
「で、でも、主がくれてたお守りのおかげで、」
「折れる痛みを知った事実は変わらないだろっ!!!」

 結果的に折れなかったし、こういうときのためのお守りのはずで、それが発動したことでこんなに怒られるなんて思いもしない。
 確かに、獅子王自身、気持ちが高ぶっていてお守りを持っていることすら意識の外になっていた。だから先ほど、思いがけない攻撃を受けて己の〝終わり〟に気づいた瞬間は、痛いとか、辛いとかよりも真っ先に、無念だと思った。
 だがお守りは発動して、少年も共に戦ってくれていると実感して、これ以上ないほどの喜びを胸に刃を振るうことができたのだ。

 獅子王は、そのことを伝えて子供を宥めようとした。
 ところが、口を開くより先に、涙を流しながら子供はしゃくりあげながら、こう言った。

「おっ、れ……やだからっ……おねが、い……だからっ……」

 子供は獅子王に、再び思い切り抱き着く。

「おれを、ひとりにしないで」

 ――嗚呼、と。獅子王の視界も、歪む。銀から零れる水滴に、自分でも驚いた。泣いたのは、刀剣男士になって初めてではないだろうか。
 手を回す。肩も背中も小さくて、小刻みに震えていて、他に何も喋れなくなっている。
 これが、本当に本当の、自分たちの幼き主の、本来の姿だったのか。
 ひとりにしないで。
 たどたどしく告げられたその単純な願いを、ずっと口にすることなく押し殺し続けてきた。それを、獅子王の胸の中で繰り返している。

「一人にしないよ、主」

 しっかりと、強く抱きしめる。
 嗚咽も、泣き声も、しゃっくりも、鼻をすする音も、喉の奥から出ているくぐもった声で紡がれ続けている、願いも。
 全部を受け止める。

「俺たちが、いるからな」

 獅子王の声は、どこまでも優しい。

 瘴気が薄れ、穢れも結界による浄化が始まり。
 暗かった本丸に、ゆっくりと、陽の光が差し込み始めた。